この Video: The Fabricated Pretexts for War (捏造された戦争の大義名分)という2016年1月23日にグローバルリサーチに掲載された4分弱のビデオは、米国(と同盟諸国)がヴェトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争、リビア爆撃、シリア爆撃を開始するに当たってどのような名目を掲げ、どのようなメディア操作が行われたかを簡潔にまとめている。
リビアにおいては、独裁者ガダフィが民主化を求める市民を無差別攻撃で数千人殺害し、傭兵なども投入されて、レイプが武器として使われた、といった典型的な(そして事実に反する)ガダフィ大佐の「悪魔化」(demonization )と「正当性と合法性の否定」(delegitimization)が西欧側のメディアで繰り返し行われた。そして、「保護する責任」(R2P)原則を掲げた安保理によるリビア制裁決議1793が採択され、飛行禁止区域の設定と、これを強制するためのNATOによる軍事介入が容認されることとなった。
NATO軍は以来、安保理決議の枠を超えて2万回以上の出撃と8000回近い爆撃を行った。
「NATOは、いつから国家元首を殺すようになったのか?これは国連決議1793をはるかに越えた暴力行為だ。NATOはリビアで、<戦争のメディア化>を行ったのだ」
この<戦争のメディア化>の過程で、NATOの軍事介入の本来の目的であるガダフィ政権の打倒と、新政権擁立という「レジームチェンジ」は、「民主化」「革命」「保護責任」といったパッケージに入れて宣伝された。レジームチェンジ(regime change)という言葉は、「政権交代」、というよりも「体制転換」という根本的な統治形態の変更を意味し、象徴として、新しい国旗が導入される。ガダフィ政権にとって代わるものとして反政府勢力、国民評議会(リビア暫定政権)に正当性を寄与する必要があり、欧米の大手PR会社とロビー会社がそれを行った。元フランス大使、クリスチャン・グレフ (堤未果著「政府は必ず嘘をつく」2012年、p.121)
2011年の2月に最初の反政府デモが始まってからすぐに、数日前までガダフィ政権で法務相を勤めていたムスタファ・モハメド・アブドルジャリルなどによって国民評議会が創設され、自らを、ガダフィ打倒後に正式なリビア政府に移行する暫定政権とした。本部をガダフィが政権を掌握する前にリビア王国の首都であったベンガジに置き、国旗も旧リビア王国のものが採用された。3月には、マフムード・ジブリールが暫定首相に指名され、新憲法草案も発表された。
軍部も設置されて、その「国民解放軍」が、ガダフィ政権軍と戦闘を行ったが、この反体制軍が、NATOを中心とする軍事支援によって劣勢を盛り返し、8月23日に首都トリポリ陥落、10月20日にはガダフィ自身もシルトで殺害され、レジームチェンジは成功裏に終わった。
国民評議会は、まず、2011年4月にワシントンのPR会社、ハーバーグループと契約した。代表取締役のリチャード・ミンツは、リビア反政府勢力の広報・ロビー活動をボランティア(無償)で行うことについて、正しいことなので決断するのは簡単だったと述べた。ミンツは、クリントン政権下で運輸省に勤め、1992年のクリントン大統領選挙運動の時には、ヒラリー・クリントンのスタッフ監督をするなど、米政府とは長い関係を持っている。
ハーバーグループは、国民評議会のマフムード・ジブリールをワシントンで議員と合わせたり、ブルッキングス研究所などのシンクタンクでの講演を手配したり、評議会を代表して報道機関に働きかけるなど、その正当性を売り込んだ。「革命」が成功したのち、2012年の3月からは、米リビア大使館と正式に契約を結び、15000ドルが毎月一年間ハーバーグループに支払われることとなった。
契約によれば、リビア新政府と米国との関係を強化し、米国のリビアへの海外援助を継続し、リビアでの商業と投資を支援するためのコミュニケーションと広報活動を行い、リビア大使館には、スピーチやプレスリリースの準備、ウェッブページやソーシャルメデイアのコンテンツの展開、説明会や代表団の訪問を組織などをするということだ。
ハーバーグループは、ワシントンのKストリートで最も高いロビー収入を得るパットン・ボッグス社と協力して国民評議会の正式承認と、それに伴うガダフィの凍結資産の受け渡しを推し進めてきた。これは2011年度中に実現している。パットン・ボッグスもまた、2011年6月から国民評議会のロビー活動をするという登録をし、ボランティアー(無報酬)でこの仕事を開始したが、2011年7月には正式に報酬をうけるようになり、2012年の前半の時点ですでに24万ドルの報酬を評議会から受けている。このころ、パットン・ボッグスの共同経営者、デイヴィッド・ターフリはリビア政府高官と、民主化への移行と、国連制裁の対象として凍結されていなかったガダフィの資産の「回復」について話をすすめていた。
ターフリは、ワシントン・ポストの論説に、
リビアの評議会を承認するということは、ガダフィを、あらゆる法的な正当性から切り離すということであり、リビアの人々を助けるために、この反乱軍が資金にアクセスでき、国際社会に「この国の自然資源を譲渡」する権利を持つのは彼らのみだと宣言することを可能にする。と書いている。
上記の2社以外に、英国に本社を置く多国籍PR会社、ベル・ポッティンガーもまた国民評議会側に就いた。この英国でトップのPR会社は、ロンドン、ドバイ、シンガポール、アブダビ、香港、マレーシア、ブリュッセル、バーレーンに事務所を持つ。共同創設者のベル卿はマーガレット・サッチャーが首相を勤めていたときのアドバイザーであった。
ベル・ポッテインガーは、2011年半ばにはすでに国民評議会のために積極的に動いていたが、この時点では正式な契約は結ばれておらず、その活動内容についてもベル卿は多くを語らなかった。ベル・ポッテインガーは国民評議会にかかわる以前から、1969年ガダフィ大佐の革命によって崩壊したリビア王国、イドリス国王の血縁で、王位継承順位第一位のモハメッド・エル・サヌシを顧客としてきた。サヌシは1988年に英国に移住しており、1992年に父の死に際して皇太子の地位を引き継ぎ、リビア皇室の長となった。亡命後はリビアの反体制派の行事を主宰するなどしてきた。
サヌシは2011年2月の時点で反政府抗議者たちへの支援を表明し、ガダフィの「虐殺」をやめさせるために国際社会があらゆる措置をとることを呼びかけた。3月3日にはリビアに帰還するつもりであると発表し、3月4日には、欧米がガダフィに対して空爆を行うことを主張し、その後国連書記総長の潘 基文に、ガダフィが空軍に完全に頼っていることから、国連が飛行禁止区域を設置すべきであるという手紙を送った。
4月20日には、ブリュッセルにある欧州議会に、英国選出保守系議員の招待により訪れ、会見でリビアへのさらなる支援を呼びかけ、ガダフィ失脚後にどのような政府形態になるかはリビア人によって決められることで、立憲君主国も含め、どのようなものでも支持すると述べた。
このようなサヌシの経歴を見るとき、英国保守党と太いパイプを持つベル・ポッティンガーが、その人脈を駆使して以前からの顧客であるサヌシの反ガダフィ活動を支援する中で、国民評議会への支援が始まったと見られる。
国民評議会と「国民解放軍」が早々とリビア王国の国旗を採用し、メディアはそれを、独裁政権に対して民主化と自由を求める人民の象徴として常に報道した。この旗がこれだけ組織的に反ガダフィ団体にいきわたり、それがそのまま新リビアの正式な国旗となった裏には、このようなPR会社の根回しがあったのではないか。